出逢い(1986年まで)


 ここまで、山野草の撮影に夢中になるとは、正直自分では思ってもいなかった。1977年、初めて手にしたキャノンAE−1で谷川岳へ登り、ハクサンコザクラを始めとする高山植物の魅力にふれたけれど、しばらくは花の撮影よりも山登りの方を主体に置いていた。撮影フィルムもネガであり、三脚も使わずに手取り撮影であった。その当時は、被写体の美しさから撮れた写真に自己満足し、己の未熟に気がつかなかった。主力カメラをキャノンF−1(1982年)に変えても、撮影技術はさほど変化はなかった。

 1983年5月、友人と奥武蔵の武甲山へ登っていたとき、仲間の一人が下ってきた一人の登山者に声をかけた。「この先にカタクリの花が咲いていますか」の一声がTさんとの出逢いであった。武甲山登りも、連れの友人もそこそこにして、Tさんと山野草撮影の話がはずみ、電話番号を交換し、以後、私にとって師にあたる人になった。そしてTさんと知り得たことが、その後の私の野草撮影に大きな影響を及ぼしたことになった。ここまで、野草撮影に一辺頭になるとは。

 Tさんから、ボジフィルムの薦め。三脚の必要性、撮影ポジョンを教えていただき、少しずつ自分の撮影技術に大きな影響を与えてくれた。そのTさんの紹介により、Mさんと知り得たのが東京駅の地下商店街の居酒屋。

 一杯酌み交わし、山野草撮影の楽しみや情報交換、さらにこれから供に撮影に行く話などで盛り上がった。その年の7月、三人で初めて撮影の山へ出かけたのが、南アルプス前衛の山「櫛形山」であった。以後、私は山野草追いに夢中になる。

 1984の春から1987年の初夏までは、ほとんどの休み(日曜日を)山へ、草原へ、海岸へ山野草撮影に明け暮れた。84年の秋、Mさんが北岳で知り得た、Kさんも仲間に加わり、撮影の季節はほとんど毎週顔を合わせていた。84・85年の六月から九月までの日曜日は、夜行日帰り(時には泊まり込み)の撮影の連続であった。。当時、日曜日しか休めなかった私は、今思えば驚異的な事であった。

 土曜の夜、MAさんと電話して「明日は東北が天気良さそうだから、早池峰山へ行こうや」と、当時の夜行急行の「津軽」へ乗車の二時間前だったり、新宿発の夜行普通(今はない、当時は有名な山岳列車?)の車内で明日はどこへ行くと、決めたり。また、植物図鑑の撮影場所と撮影月日のみを参考にし、出かけていた。

 ある朝の早朝、撮影のため徒歩15分の大井町駅へ(当時は国鉄、まだ西大井駅もなく、私の出発の起点は大井町駅であった。)向かうとき、中学時代の朝帰りの友人と良く会い、我ながらなんと健康的すぎる生活(ちょっと淋しい)しているんだと思うこともあった。

 Mさんは、野草を撮影するのに抜群の嗅覚を持ち、また植物図鑑にある目的の花と一緒に撮影されている下草を頭の中に入れて、推理力と観察力と、冴え渡る感により、探し求めた。私は、その恩恵に与ることが多かった。Kさんの人脈により、宇都宮のFさん。(後日、私の結婚式の本業の司会を勤めていただいた。)そのFさんから、まさに動く植物図鑑?とも言うべきYさんと知り合うことができ、その知識と行動力に敬意を持った。

 86年には、私は自宅を出った弟の自家用車を譲り受け(93年まで所有)さらに活動範囲に広がった。早朝、東京駅の大型書店の前で待ち合わせ、帰りは渋滞に捕まり、夜遅く帰宅になることが多かった。

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